子どもへの手紙

後藤 圭

掲載紙不明 90年頃

 私は影絵劇団の代表をしておりまして、「影絵」(シルエット)の様々な形での表現、創造活動を仕事としています。
 この「影絵」というジャンルは、日本ではどうしても“幼児、子ども向きのもの”と、理解される事が多い様です。“子ども”を主なる観客対象とする事は、誇るべき事なのですが、この社会一般的な“幼児、子ども向きのもの”という言い方が、まだまだ“たいした事のないもの”といった意味である場合がとても多い事は悲しむべき事です。こんな考えを持った大人がたくさんいる内はこの国はまだまだ“国際化”は出来ないと考えて間違いはありません。さて、私の主催する「劇団かかし座」は、特に対象を“子ども”に限定しているわけでは無く、かなり広いジャンル、年齢層に対しての活動をしているのですが、現在の所は大多数の観客が、12~13歳以下の子どもです。そこで子どもについて考えたり、子どもと接する機会がとても多くなるわけですが、そうした仕事を重ねれば重ねるほど、その難しさが骨身に染みて参ります。一体何を、どんな形で表現する事がベターなのでしょう。子どもが私達の影絵劇に接した時に、生き生きと元気が出て、自分の将来や人間の可能性を感じて、朗らかになれる。そんな表現はどうしたら可能になるのでしょうか…
表現活動に身を置く以上、絶対に秀でた表現を実現したいと考えるのは皆同じでしょうが、容易な事ではありません。
「子どもが一番生き生きと元気になるのは、子どもが自分で“何か”を発見した時」というのは演出家の関矢幸雄さんの言葉ですが、どうしたら舞台でそれが可能になるのでしょう。自分の将来や人間の可能性を感じられる表現とは何なのでしょう。
 ごく当たり前の事なのですが、子どもが何かを発見するためには、そもそも舞台の上の役者1人1人が日々の上演でまず自分達が何かを発見、獲得して行く位積極的でなければなりません。子どもが舞台の上の人間にある程度の信頼を置いてくれるためには、役者1人1人が観客である子どもを信頼し、尊重して精一杯の努力をしなければなりません。要するに“演じ手にとっていつも新鮮でいつも課題が用意されている演じがいのある素材”が必要なのです。この“素材”は「ストーリー」とか「戯曲」の意味ではありません。舞台作品としての様々のプランを含んだ全体。もしかしたら劇団体制まで含んだ“状況”といった意味かもしれません。
 簡単に言えば、子どもにとってのより良い舞台とは、役者(表現者スタッフを含む)にとっても良い舞台なのでしょう。
 逆に言えば、表現者(かかし座にとっては、影絵そのものを作る美術スタッフを含めて)が、表現や人格的なものを含めて成長をする事の出来る舞台。表現者がその関わりの中で有形無形の「得」をする事のできる舞台こそが子どもにとって用意されるべき舞台なのだと思います。
 ひるがえって私たちがなぜこうした仕事(表現、創造活動)を選んだのか、と考えてみれば、私にしろ、かかし座の劇団員にしろ、どこのどんな役者さんでも、明らかに自分でやりたくて始めたはずです。言ってみれば、自分の為に始めた部分が必ずあると思うのです。必ずしも初めから世のため、人のため、子どものため、と考えて始めたのではないのだと思います。
 だとすれば、あくまで創り手の立場から言えばですが、その活動はまず第一に創り手のものであるべきであり、創り手が喜びを持って行っていない活動で、観客の喜びを得られるわけがないのです。ここが大変に問題なのです。美術家であれ、演奏家であれ、役者でも演出家でもそうですが、ただでさえ事、表現活動に関する限り、わが国での社会状況は大変に厳しいものがあります。そして特に児童・青少年に対する活動に関する限り、これは悲惨を極めます。その悲惨さの詳しい状況説明は省かせていただきますが、とても表現活動を志したり、子ども達への活動を夢みた若者達の純粋な気持ちを支えられるだけの状況ではありません。
私はこの国の子ども達に、より良い表現としての影絵や影絵劇を届けたいのです。「表現活動をなりわい生業とする以上、至らぬ部分を社会状況のせいにするのはいけない。」とする意見も当然あるでしょうし、正論であるかもしれません。
しかし「子ども達にメディアを通さない“生身”の表現を届け、子ども達に少しでも生き生きとした、目を輝かせたとき時間を過ごしてほしい。そうしたとき時間を通じて“人間”への信頼を培ってほしい。」と考える時、私は同時にそれに関わる人間達(私を含めて)の事を想うのです。子ども達にそうしたとき時間を提供するためには、生き生きとして目を輝かせた大人達が必要なのです。現在の教育システムや溢れかえる情報の中で育ち上がってきた若者達が“子供のための表現”などという地味な世界に志を持つ事はとても貴重な事です。そして志を持った若者が豊かな表現力を身につける事は大変に困難な事です。さらにそうした若者達がその世界の中で人生を考え、生活を成り立たせていく事は、現在、ほとんど絶望的でさえあります。
 この国には“子ども”と“文化”、“文化の担い手達”に対する「哲学」がないのです。私は、いつの日かこの“哲学”がこの国で理解されていくようになる事を願っております。

 そしてかかし座にいる“文化の担い手“の卵達と一緒に、少しでも良い環境がかかし座の中だけでも実現できる様に努力を重ねたいと思います。少しでも多くの私達の表現に接してくれる人々のために、…そしてその大多数を占める子ども達のために。