『ふるさとの言葉を大切に』
とう・たいりう
「教室の窓—–東書中学国語」191号
特集○美しい日本語を育てる
昭和51年4月1日発行
編集・発行 東京書籍株式会社

日本語については、現在いろいろな方から問題が提起され、その乱れ方について議論が行われているようでありますが、残念ながらそのほとんどが、文字・文章に関した事が多く、言葉をその生きた姿、つまり音声化され、語られている状態で捕えられておりません。
もう下火になったようですが、一時「ちかりたび」という言葉が大へん流行しました。秋田地方の方言を、テレビコマーシャルでとり上げたのが、その口火になったようです。私はもともと東北弁が好きなせいもありますが、この言葉は大変実がこもっており、しかもユーモラスで味わいがあるので、つくづくよい言葉だなあと好感を持っておりましたところ、あとになってその地方の方が、馬鹿にされたと言って怒ったという話をきき驚きました。この百年、日本の近代化が進むにつれ、村→町→都会→東京→西欧といった文化の指向性が強く働き、そのために、より都会的なものがよいとされる風潮が育ってしまいました。そのため、言葉についても方言はいなかっぺの使う下品なものであり、東京で使われている標準語(最近は共通語と言われているようです)が正しく、上品なのだとされてしまいました。ですから現在でも多くの人達が訛を気にし、コンプレックスを持って生きているのです。大変おかしいことだと思います。共通語というのは、あくまで便宜上つくられたものであって、歴史も浅く、まだ味もそっけもありません。毛筆の味わいのある文字と違って、タイプライターでうった活字のようなものと考えてよいでしょう。それに較べて方言は、永い間その地方の人々の間で練りあげられ、独特のリズムとメロディを持つようになり、まるで音楽を聞いている様な心地さえするほどです。民謡もきっとこのようなかたちで生れたのだと思います。美の基準を東京に合わせる理由は何もないのです。ただ、今までは、無批判の西欧化礼賛にあけくれていたため、すべての基準、焦点が国際都市東京に合わされがちだっただけです。もっと自分の生れ育ったふるさとの言葉に、自信と誇を持って欲しいのです。そうして実用的な共通語と合わせて二本立てでマスターして行くべきではないでしょうか!共通語によるとげとげしい事務的な言葉のやりとり(公的機関ほどそれが強い)が多くなっていた東京で突然おこった「ちかりたび」の流行は、この間の事情を深くものがたっているように思えます。ふるさとへの潜在願望がいっきに引き出されたものと見ることができるのです。
言葉を楽しく、美しいものにしようとする気持ちがうたを育てます。方言から民謡へといった大変自然な発生のしかたはよい例ですが、我が国では明治以降、さきほども申し上げましたように、やたらめったら西欧文化礼賛でしたから、日本語の特性とは関係なく、西欧音楽を輸入し、小・中学生に強制的に教育して参りました(現在も進行中)。その結果、日本語に密着して育った邦楽は衰退し、洋楽全盛になってしまったのです。しかし、日本語でうたうオペラをおききになればすぐに分かることですが、西欧のメロディと日本語は水と油です。どうにもとけ合わずにいまだに四苦八苦しているわけですが。このヘンチクリンな間違った音楽教育のおかげで、逆に日本語がおかしくなってしまって来たことも事実です。話し言葉、語り言葉から自然にうたにならなくなってしまったのです。あのなつかしい金魚売りの声や、もの売りの節まわしこそ、日本語がうたになるもっとも自然な形だと考えられますが、悲しいかな、高度成長経済はそういうものを片端からなくしてしまいました。江戸の子守唄で、あるいは五ツ木の子守唄で育った我々より、モツアルトの子守唄で寝かされた人間の方が高級だとでもいうのでしょうか?日本人から、日本人特有の音楽を奪うということは、その美しい日本語を奪うことでもあったということを、私達は深く反省し、官民あげてそれをとり戻す運動を今展開しなければ、手おくれになると私は感じている次第です。

(かかし座主宰)

前のページへ戻る