『テレビ懺悔録』

「ユネスコ・クーリエ」1974年4月掲載
編集 ユネスコ
発行 旺文社インターナショナル

《何かいいことありそうだ》というわけで、放送開始したばかりのテレビスタジオへ影絵劇団かかし座をひっさげて入って行ったのは今から30年も前のことでした。
それ以来、ああでもない、こうでもないと四苦八苦、それでも二万回以上のテレビ出演を重ねて現在に至っているわけですが、正直なところ、もはやテレビスタジオで何か創れるという可能性は信じられなくなってしまったのです。
 テレビは音つきの映像を即時に送信機から受信機へ送ることが出来る大変便利なしかけです。
このしかけが高度成長の波に乗って全国の家庭に行きわたってしまったのですから、これは見事でした。そうなるともう、他のどんなマスコミもかないません。
たちまちテレビ時代を築きあげてしまったわけです。
当時まだ若かった私達がこれに魅せられてしまったことは、あながち無理からぬことであったと考える次第です。しかし、テレビ番組というものがその即時性という本質から、報道番組が主体となり、これを補うスタジオ番組というものは、あくまでも穴埋めであり、消耗品であり、インスタントなものでしかあり得ないということに気付かなかったのです。
その為、それから十数年というもの、私達は泥沼の道を、苦難の道を、栄光なき努力の道をあるかざるを得なくなってしまったのです。
 テレビは報道番組を軸に構成されるわけですが、報道するにはもとになる種(事件)が必要です。 テレビ局の期待にこたえてうまく連続的に事件がおこってくれればよいのですが、そううまくは行きません。事件も大事件な程よく高視聴率を得る事が出来ますが、事件のない時は困ります。そこでスポーツの様な準事件を中継することになるのですが、それもないとなると、仕方なしにスタジオで計画的な?ハプニング?をおこすわけです。つまりでっちあげ事件という奴です。
ある事ない事書きたてる週刊誌のあり方に似てくるわけです。今やこの手の番組が氾濫し、世の批判をうけておりますが、しかしテレビ局としてもいつ起るかわからない事件を待っていても商売になりませんので、そういう傾向も仕方ないといえば仕方ないのでしょう。
批判をうけるものばかり出すわけにもいかないということで今度は古い映画を放映したり、舞台を中継したりするわけですが、それも数に限度があります。
やはり局独自の立場でスタジオドラマをつくらねばならないことになります。
しかし演劇(あらゆるジャンルの)というものはもともと劇場で観客と共に創られるという大原則があります。
観客のかわりに赤ランプの点滅する冷いカメラを相手にしては、さすがのベテランの役者といえど、空しさにおそわれ、充分な演技が出来る筈もありません。その上、相手の変りに視聴率という化物の様な看守人ににらまれては、正常な神経の持ち主なら誰だってどこかおかしくなる筈です。
演劇の形式はテレビにむいていないということになれば、こんどは映画の真似をします。
観客と直接交流の出来ない映画スタジオの条件はテレビに一番よく似ています。しかしこの形式はそれなりに、抜群の創造力と、緻密な計算性を持った演出、それにながい日数と労力を必要とします。それをテレビでは形だけ真似て、ながい日数と労力という基礎的努力は省いてしまうのですからよいものが出来る筈がありません。 過去の名作といわれる映画にかなうわけにはいきません。
 つまるところ、テレビスタジオにあるのは、演劇のようなもの又は映画のようなものなのです。
 何かを放送しないわけにはいかないのでやむなくつくっている消耗品ですから、念を入れてつくることは出来ません。
金と時間をかけることは極力さけなければと考えるわけですから、所詮インスタントにつくる他はなく、スタジオにかきあつめられたタレント達は丁度カップにつめられたラーメンに熱湯をそそぎこみ、みるみるうちにインスタント番組につくりあげられてしまい、この操作のうまいディレクターは、さすがといってほめたたえられるわけです。本当の板前は実はそこにはいないのです。
ですから、その番組があきられますと、中味の種(タレント)をとりかえ、目先を変えて売り出すことになります。………まさに消耗品以外の何ものでもないという事になります。
「私達は消耗品ではない。そんなものをつくっているつもりじゃない。だからこんなにも夢中になってやってるんだ。」などと叫んでみても仕方なく、やって見せるしかないのだということで仕事と取組んでいたのですが、やはりそれは無駄なことであった様です。
 テレビスタジオでは、まことにあたり前の努力、時間と労力をかけて(金もかけます。)稽古を積み重ねると云う基本的努力。これをしないですから。いや出来ないのでしょう。
どうもそれがテレビに負わされた宿命のような気がします。
それではやはり、今後もテレビスタジオからは芸術の香り豊かな、練りに練った作品は生れる筈もありません。テレビスタジオではここ20年来、いつもいわれていることは、アイディアであり、珍奇な素材であり、人気スターであるのです。
 テレビに参加して10数年後、私はそんなテレビの中で青春の情熱を使い果たし、その空しさに強度のノイローゼとなり生死の境を彷徨する破目に落入りました。
始めから何も生れる筈のない土を夢中になって生命をかけて耕していたのですから、それも当然の報いでしょうし、又自分で好きではじめたことですから誰を恨むわけにもいかなかったのです。
そこまで到達したことに、ひとりテレビ側のみを責めすぎたかもしれません。
 テレビも他の媒体と同様、ある受け手があって成立するものですから。
しかし、テレビの受け手である一般視聴者が、より俗悪な番組を支持する側に廻ったことは、全く悲しいことなのかもしれません。テレビ当事者は、視聴率というものに振りまわされると、結局手軽にインスタント的作業を続けなければならないという悪い循環が続いているのかも知れません。
 そんな風に思うと、受け手の方に希望がないのではなく、ごく少数かも知れませんが、良質の視聴者-良識あるお客が必ずいるものなのです。少くとも私の体験からいえば、まだまだ緑の広場があるのです。ともかくも無残な姿でいのちからがら、そこから抜け出した私は、やがて観客のいる劇場へたどりつきました。
するとそこでは、幼い目が、清らかな目が、たくさんの輝く目が、私達の創るものを価値あるものとして見つめてくれたのです。
観客というすばらしい人達によって自分達の魂が洗われ、磨かれ、そして作品が支えられる事を実感したのです。
美的感動が湧きおこり劇場いっぱいに広がるのを感じ、上演ごとに溢れる涙をとめることが出来ませんでした。創造者はより多くのナマの観客によって本道を歩むことを教えられるのです。
 この事実に、私なりの懺悔をこめて、これからのテレビをになう方達に申し上げたいのです。
 良質の番組に対して支持を続ける視聴者のことを、いつもどこか念頭において、心を配るよい作業をして下さい。
 しみじみと人生をわたろうじゃありませんか。

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